昭和42年07月09日 朝の御理解
天地の事は私共人間では分らない、計り知れない今その為には、私共は疑いを離れて見なければならない、疑いを持っていたら限りがない。疑いを去れよ疑いを去ってみると、神様の有難き天地の偉大さが分る。疑いを持ってしたら限りがない。疑いがまた限りがない。よく色眼鏡で見るという色眼鏡で見る、私共が疑いを起こす時には、必ず色眼鏡をかけておる時である。神様ほど言うなら無色透明な方はない。
無色透明である。いかに無色透明なものであっても、それを私共は黒い眼鏡をかけたら黒く見え赤い眼鏡をかけたら、赤く見えて来る。天地の事は人のまなこを持って、知りつ知り難しと言う事がある。疑いを去れよ疑いを去る、疑いを外して掛からなければ信心は出来ません。お互いがおかげを受けておると、自分の都合の良い様に事が運んだり、物事が行っておる時にはいわゆる有り難い神様である。自分の思いごとが叶わなかったり、自分の思う様に行かなかったら如何にも神様に力がなかったり。
神様が嘘を仰ったりしておる様に聞こえる。また見えるそういう時には、自分自身が今色眼鏡をかけておるんだと、悟らせて頂いておかげを頂かなければならない。それを教祖はこれ程の信心するのに、どうして此の様な事がという時には、もう信心は留まっておると言う事は、そういう時にはもうすでに色眼鏡をかけておると言う事である。是はまあだ、信心が足りんからだと。
一心に信心をしていけば、そこからおかげが受けられると仰る。是はまあだ、信心が足りんからだと言う所に、色眼鏡を外しておる姿である。そこからそこからおかげが受けられると仰る。そこから神様が正常に見えて来るのである。ね。繰り返し繰り返しそこんところを信心しながらも、通っておる人達がある。確かにおかげを受けておる。その時には有難い神様である。思う様にならんと神様の方が間違って御座るように見えたり、神様の力が無い様に見えたり、神様が嘘を仰る様に聞こえて来たりする。
そういう時にですなら誰しも、そう言う様な所を矢張りあの、例えとして通るもんである。だからそういう時に、はぁ今、自分は色眼鏡をもって神様を見ているなと、先ずそう悟らねばいかん。同時にはぁ自分の信心はもう、ここまでもう留まっておるんだと知らにゃいかん。是はまあだ信心が足りんからだと、一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられると思う。はぁ是は自分が色眼鏡を掛けておるんだと、悟らせて貰うて、そこから一心の信心をさせて頂けばそこから、神様が又正常に見えて来る。
そこからおかげが受けられると仰る。そこから愈々神様の本当のおかげが頂けれる。そのおかげが頂けれる様になって来る時、私共が神様を色眼鏡で見らんですむ、本当の信心生活というのは、そこから出来て来るんである。信心生活が出来ると言う事が有難い。お天気の良い日は神様の働きと思い。雨が降ったらもう神様は御座らんのじゃなかろうかと思う。風でも吹いたら愈々神様が疑わしゅうなって来る。人生日常生活の上にもそういう雨だ、風だという時程一段と信心を進めて行かなければならない。
いわゆる色眼鏡をとってすると。その雨でも風でも濡れんで済み、又はその風でも吹き折られんで済む様なおかげになって来る。そしてその雨や風が上がってお天気になった時に、本当の信心というか、本当の神様を把握する事が出来るのである。本当の神様のお働きと言う物を知る。本当の神様を分かると言う所から、信心生活というのは出来るのである。自分の都合の良い事だけの、時の神様であったら、それは神様を言うならば、半分しか頂いてない様な物です。実に頼りない。
言うならお天気の日にパラソルを持っておる様な物である。成程大して暑い思いをせんで済むかも知れん。けれども雨が降って来ると、もう、濡れなければならん。矢張り何時も、雨傘の用意は出来ておらなければならない。そこには濡れんで済むおかげが受けられる。その事をですね、真実の事をです、思い込んどかなければいけません。神様が疑わしい、神様に力が無い様に、神様が嘘を仰る様な考え方がですね。
私共の心の中に起こって来たら。それはもう信心の危機ですから危ない時ですから、今こそ自分は色眼鏡を掛けておるんだと、先ず悟らにゃいかん知らにゃいかん。でそこからです是はまあだ、信心が足りぬからだと一段とです、只今までの信心じゃいかん。一段と信心を進めなければいけません。ね。十の力を持って信心をして居たのを、二十の力に一つ、信心を進めて行かなければいけない。
一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられる。この調子をこの事だけが分っておれば、愈々先々おかげが受けられる事だけに、違いがない間違いがないという確信も付いて来る。どんなに降っても濡れんで済む。どんなに暑いお天気の日でも暑い思いをせんで済む。おかげが頂ける筈です。先ず疑いを去れよと仰る。天地の事はとても私共の知恵力で知って知り難いものである。
昨日あるお医者さんがお参りされて見えて、人間の身体位微妙なものはない、現代の医学では例えば人間の身体を解剖する。ここにはこうなってこうあっとる、そこまでは同じなんだけれども、それから先の微妙さと言うのはもう人間の力では分らない。現代の医学では分らないと言うておられます。所謂分らない所謂無色透明それから先が。あまりにも偉大あまりにも大きい、ですから私共の中途半端の学問やら。私共の中途半端の知恵力で神様が分る筈がない。けれどもそれを信じて掛れば。
成程これが神様のお働きであると言う事を分らせて頂けれる、おかげが受けられる。私共の知恵力で神様を測る様な事してはならない。その為には何時も私共が疑いを去って、神様へ一心に打ち向かう。そして一段と信心を様々な機会を捉えて進めて行く、高めて行くと言う事だけに、心を置けば良いのである。神様を疑うと言う事は所謂恐るべし恐るべしと申します、神様を疑うて掛る位恐ろしい事はない。其処ん所を私共がお広前にお引き寄せを頂かせて貰うとです。その無色透明の神様がです。
自分の心の中に自分の無色透明の心で捉えてが出来る。神様には声もなからなければ言葉もない。いうならいわゆる無色透明で、いうならばあるやらないやら分らない。からと言うて疑うて掛ったら、その神様はもう本当に頼りないものであり所謂嘘になってしまう。それでは信心生活所謂人間の本当の幸せの生活は出来ない。本当の幸せの生活にさして頂きたいと思うならば、只今教祖がその具体的に教えておられます様に是はまあだ自分の信心が足りぬからだと、様々な機会にです。一段と信心を進めて行く。
ま形の上で言うなら朝参りでおかげを頂いて、分らんなら又夜も参らせて貰う昼も参らせて貰うと、例えば一段と信心を進めて行く所から。その神様を頂く事が出来る。そこからおかげも頂く事が出来る。おかげを頂いて初めて。所謂人間の知恵力では出来ない事がです、言わば枯れ木に花が咲く様なおかげも頂かせて貰うて、愈々その神様を確信出来れる生活を、願わせて貰わなければならない。神様を確信しての生活、それが本当の信心生活。それが所謂安心の生活。真実幸せの生活と言う事が言えると思いますね。
どうぞ。